鎮守信仰の趨勢(すうせい)と日本の興亡

鎮守の神と江戸末期から太平洋戦争敗戦までの日本の興亡

  • 江戸時代末期の頃、イギリスとフランスがインド、東南アジア、東アジアにおいて植民地争奪戦を繰り広げ、ロシアの極東での南下政策、さらにアメリカからの開国要求を受け、欧米列強による覇権争いの波が日本に迫っていました。
  • 1867年(慶応3年)10月、江戸幕府が大政奉還しました。その数カ月前の同年夏から「天から御札(神符)が降ってくる、これは慶事の前触れだ。」という話が広まり、囃子言葉の「ええじゃないか」を連呼し町々を巡って熱狂的に踊った民衆運動が、現在の東京から広島東部を結ぶ地域を中心に日本の広範囲で自然発生し、倒幕運動を後押しすることになりました。1)
  • 明治政府は神社を「国家の宗祀」と定め、それに見合った神社体制の構築を推し進めました。このため、神社から仏教色の払拭、神社による戸籍管理、神社の位置づけの表明、神社の実態調査を行いました。2) この頃、地域の神社の多くは「鎮守の神」とされていました。3,4) 鎮守の神は唱歌「村まつり」に歌われ、人々に敬い慕われていたことを窺い知ることができます。
  • 日本は幕末の動乱から急速に世の中が安定し、文明開化、富国強兵と著しいスピードで発展し、日清、日露戦争では戦勝国となりました。
  • 1906年(明治39年)明治政府は国家神道を推し進めるため神社合祀に着手しました。皇室との縁の深さなどから社格を決め、地方の小さな社は「由緒なき神」として約19万社あった神社の8万社が明治末期から大正初期にかけて廃止・合併されました(図1)。5) このため、鎮守の神を祀る多くの神社や祠が取り壊されることになりました。
  • 明治政府は地域の神社を「氏神(うじがみ)」と画一的に取り扱ったため、4) この呼び名が徐々に浸透し、現在に至っていると考えられます。
  • 国家神道の具現化政策はその後、天皇を現人神とした天皇制支配の思想的支柱となり、軍国主義と結びつき、ついには太平洋戦争に突入しました。
  • 太平洋戦争では、広範囲の本土空襲に見舞われて国土は焦土と化し、さらに原子力爆弾が広島と長崎に投下されました。広島は日清・日露戦争で大本営が置かれ、長崎は鎖国時代に西洋文明を取り入れ、明治維新の立役者を育んだ場所でした。
  • 太平洋戦争敗戦の結果、日本は日清・日露戦争で得た領土をすべて失うことになりました。
明治末期に行われた神社合祀はなぜ問題なのでしょうか?
  • 神社や祠は、過去その地域の人々が不思議な体験や霊験を通して、人間よりも力を持った目に見えない存在(神)がおられることを確信し、お祀りするために人々が設けたものです。
  • 人間的な視点から社格を決め神社や祠を統廃合したことは、神からみれば人間の傲慢ととらえられても仕方ありません。
  • 太平洋戦争に敗れた日本は、明治の発展で得たものの多くを失いました。明治元年から数えて78年目のことです。その中間に当たる明治39年に神社合祀政策が推し進められました。この前後で歴史を見比べると、神への非礼に対する報いを垣間見ることができます(図2)。

                図2 江戸末期から太平洋戦争敗戦までの日本の興亡1, 2, 4, 6, 7)
鎮守の神と氏神との違い
  • 鎮守の神とは、その地域を鎮めお守りいただくよう祀られている神の総称です。天元教では、世界中の各地域に降り、自然現象や人々の思想、教育、科学技術など地球上におけるあらゆる事象を分担して支配しておられる全ての神々を鎮守の神とお呼びしてお祀りしています。
  • 一方、氏神は元来その漢字の意味の通り、それぞれの氏(苗字)の人々を守護する神(藤原氏や平氏、源氏、北条氏など個々の氏毎の守護神)を指します。「言葉の乱れは世の乱れ」ともいわれますが、個々の氏(集団)第一主義を願っていては、世の中は乱れてしまいます。各地の神社や教会では、異なる姓を持つ地域の人々が共同でお祀りしていますので、「氏神」ではなく、地域を鎮め、守る神として再び「鎮守の神」をお祀りし、鎮守様とお呼びしましょう。

参考文献
1) 鳥海 靖「もういちど読む山川日本近代史」, 2) 櫻井治男「地域神社の宗教学」, 3) 圭室文雄「江戸時代の村鎮守の実態」, 4) 米地 実「村落祭祀と国家統制」, 5) 村上重良「国家神道」, 6) 世界の歴史編集委員会「新もういちど読む山川世界史」, 7) 永濱眞理子「幕末・明治維新」  

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鎮守の神様をお祀りしましょう


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