十、竜神及び稲荷の行

 行中のものは、その行体が何であろうと物に見蕩れたり油断したりすると、その行に破れることになっていて、竜神位や竜王位、稲荷や聖天位等の神位を得るための行等は、人界の行よりむつかしい。竜神位三十六段階、竜王位八段階、稲荷聖天等の明神位は八十八段階になって居て、彼等は全力を尽して、その位を勝ち得るための行をやります。竜神と言う動物は、上位の神達に認められ、神の使いの行を命ぜられ、その使いの役目を往復共に、完全に果すことによって、二段位が上がる。この間、見ることも知ることも出来ない数万の神達の監視中になされて居る。

 一柱の神から使いを命ぜられた時から、その者の行は始まる。彼等の行の掟として、その使いの途上、姿を人間に見られることによって、彼等の行は破れ、今迄苦労して得た神位は一時に剥奪され、彼等は神通力を失い、唯者となることになって居ります。但し、人間に竜神であり、神の使いの途上であったことを知らせ、又知られ敬まわれることによって、直に元の神位と神通力は返されることになって居ります。これは人間に神達の居ることを知らしめたと言う功徳によるものです。それ故、彼等は神から使いの行を命ぜられると、己れの神通力を用いて、出来る限りの小さな姿となって、油断せぬ様、物に見蕩れぬ様、全力を尽して人間を遠ざけ、その間隙を通過する。人間は彼等の神通力によって糸の解ける様に進路を左右に開けて、自然に去って行く、真に神秘だ。誰れもこのことを知る人はなかろう。彼等は行に破れぬ様、その方に全力をそそぐので、彼等が目的地に到着した時には、往々にして使いの役目の用件を忘れて居る。そして神からやり直しを命ぜられる。逆に用件を忘れまいとすれば、その方に気をとられて、姿を人間に見られ、彼等の使いの行は失敗に終る。

 誠に難行である。彼等は一度この使いの行に出れば目的地に到着するまでは、食物も水も得る余裕は無い。使いの役目果しての帰り途も同じである。命ぜられた神の処に報告終るまでは、物に見蕩れることも、油断することも、安心することも禁物である。かようなわけで、彼等が使いの行の途上で主に失敗する箇所は、立派な建造物、公園等の池、清水のある箇所、珍らしい花、果実の熟して居る箇所、よい香い等の出る草木のある場所、学校の児童がむじゃきに遊んで居る校庭等が挙げられ、彼等の行の難処とされて居る。彼等は神通力を得て、神の命を受け、人間界のすぐ上を守護し、これを支配して文化を造らしめるので立派な建物等に見蕩れることが多いのであります。

 「行きはよいよい帰りはこわい」の言葉にある様に、彼等が使いの往き途で失敗することは先づ希れで、帰途のやれやれと思う彼等の油断から空腹を感じたり、喉がかわいたり、花や音楽に見蕩れたりして行に破れる者が多く、果実の色合いや香い等は全く彼等を精ぬけにして行の途上にあることも忘れさせる模様であります。いや、竜神の行ばかりではないのです。汝達人間もこの通りでありますので、お気を附けになった方がよいと思います。行体を持って居る竜神や竜王は蛇によく似て居りますが、何処となく綺麗で、小さな姿では絹はだの様で頬が蛇よりふくれて居り、大きな姿では鱗が大蛇の形をして尻尾がぶっつり切れて居て丸くなったり、二つにも三つにもわれて居るものなどが居ります。色は種々なのが居ります。彼等の行は位が上るに従って、段々むつかしくなり、行に破れた罪も大きいのです。

 最上位の竜王級を得るための行等に破れると、本人ばかりではなく、彼等一門の追放等の罪に問はれ、妻も夫も子供眷属に至るまで、神通力を失う結果となるのです。人間には想像つかぬだろうが、彼等には奈落の底の行と言われて、肉体を持ちながら彼等の神通力を用いて、北極の行、南極の行、火口の行等果さねばならない。油断すれは肉体は氷と化し又火に溶けるだろう。彼等に与えられる寒行等最もつらいものだろう。霜の中に咲いた寒ぼけの花に見蕩れて、その場でからだの自由を失った竜神、柿の実に見蕩れて樹上に姿あらわれた竜神、校庭で子供達の遊びに見蕩れて姿があらわれた竜神等、枚挙に暇がない。

 彼等も人間と同じく、己れの失敗は棚に上げ見附けた人を怨む。勿論、行に失敗したかぎり人間界にその神位を認められなければ最早救われる途は無い。それ故、彼等は姿を殺させて、その人達に取憑き、その時を起点として殺した人、見た人達に苦難を与える。人間は誠に迷惑なことであるけれど、この様な掟だからやむを得ない。これも神の居ることを人間に知らせる方法でありますので、人間はそのことを知り、彼等を救うことによって一生恩を返されることもあります。

 彼等は失敗して人間に神として認められなかった時は、往々位が落ちたまま人間に生れることが多い。この場合、見附けられたり殺されたりした、その人の家に生らされ怨みは続けられる。人間に生れた以上、今度は人界の苦行をしなければならぬことになり、過去のことは忘れさせられる、誠に困った掟だ。しかし、どんな場合でも怒ったり怨んだりした時は、神の裁きを受ける掟だからこれもやむを得ない。何んの姿に生らされても掟は同じであり、たとえ、竜神であろうとも腹立ちや怨みは天罰を受けなければなりません。この様な関係にあるものが一家に生れ出て居ると、本人はもとより親子兄弟姉妹に至るまで不仲になったり、大病したりで苦難は続くことになる。

 このような場合には、その本人が前世で行に破れた罪を神に詫び、過去に他のものを怨んだ罪を念霊ざんげ供養法によって詫び、その後で自分の前世である竜神供養法に依って、前世で多少残した未練を取り去らなければ苦難は解消しない。このような運命にある方は多少竜神の性質を残し、往々潔癖である。稲荷や聖天等の明神位を得る場合には、八十八段階の神の使の行を経なければならない。往復することによって、二段階の位の上昇を見る。この場合にも、それぞれの姿を持ちながら得た神通力で使の行を果すのであるが、帰途の安心感から姿あらわれて人間にとられることが多い。

 手を合すような恰好をする狐狸等を射ってはならない。後の崇りが後世までも続いて、一家全滅の運命が来る事がある。往々、変な所作をして狂人等が続出する。このような場合には、明神供養法により救ってやればよい。人間に生れ出て居る場合は、竜神の場合と同様である。明神供養法によることは言うまでもない。彼等が往復の行の途上に於て位が一段階上る度毎に、尻尾が一節づつ切れ落ちて、その度毎に段々と毛色が白色化し、肉体が透明化して来る。よく毛玉様だと言って人間が拾って祭って居るのは、この場合の一節である。当の本人は何時何処で切れ落ちたか、然々知らずに居る。祭らぬ方がよい。竜神のぬいだ皮等も同様である。その者に崇ることがある。このようなものを神として祭ってはならない。かような行を果し終ったものは、最早狐狸ではないので、狐狸の姿等造って祭ってはならない。

 祭ると、神を馬鹿にしたことになり、苦難が続く結果となります。稲荷や聖天、竜神等を祭るなと言うのではありませんから、おまちがえなさらぬように願います。神の使いをする神であることを知って崇め祭るよう心掛け、あまり彼等にむり難題を掛けない様御守護をお願いすべきであります。彼等とても神位は得たものの、行中の神達でありますので、全部が悟りきれて居るわけには行きません。竜神には、頑固、強情者が多く、又執念深い者が多いのであります。

 稲荷には、おっちょこちょいなもの、聖天には横柄な威張り屋が多いので、真の悟りを開き、彼等の前身持って居た野性を捨てなければ、真の神通力は、天罰のためあらわれないで、悪に染ったり、それらに守護されて居る人間が、そっくりそのままの性質をあらわすようになり、迷惑する場合が多いのであります。神位にめざめ悟りを開き、野性を捨て得た彼等に守護された時は、やることなすこと総てに幸運にばかりめぐまれるようになります。人の運勢はこれによって決すると言ってもよいのであります。汝の心を改め、彼等にも反省を求めて、彼等の野性を捨てさせなければなりません。南無忠孝妙法典と称えつづけることによって。
 

天元教 第一編

一、唱題 南無忠孝妙法典

二、教典 忠孝妙法典

三、序 文

四、霊や神達は居るか

五、大自然は魂魄、言葉、電素に依って活動する

六、霊と香い

七、虫のよい人間たちの多いこと

八、面白く操られて居る人間界

九、油断と満心は汝の行の禁物

十、竜神及び稲荷の行

十一、竜神と人との関係

(一)人間に落ちた安姫の昇神

十二、稲荷と聖天

十三、水神と井戸神

十四、家相の難除け

十五、地鎮祭

十六、丑九十度清浄圏と未申清浄圏

十七、八柱の荒神

十八、八荒神と水神守護の分布

十九、毘沙門

二十、思ひ除け人形法

二十一、思ひと恋慕

二十二、神の思ひ

二十三、仏 霊

二十四、念霊(生霊)と死霊

二十五、人体に憑く動物霊と供養

二十六、樹木や岩に棲む霊と供養

二十七、金神(こんじん)供養

二十八、執念(しゅうねん)供養

二十九、行体の繁殖とその霊及び寄生霊

南無忠孝妙法典
天元教機関紙
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