十二、稲荷と聖天
稲荷も聖天も、その神位の称号である。何んの姿からでも、行の結果から授けられる称号である。稲荷だと言えば、白狐を想像する。上の神達の支配を受けるので、汝達が無理な願いをしても、神命の範囲を越えることは出来ない。要は、汝の心を神意にかなうよう改良することである。どの神の使いにも沢山の稲荷や聖天が居る。従って、その神の役目によって、稲荷や聖天の役目も違う。主に職業を司るものが多い。慾深い人は、稲荷や聖天を慾神に仕立てて、支配して居る神達を無視して居る。何から何まで稲荷様、聖天様と縋った処で、心も改めず役目違いのことばかり願われては、稲荷や聖天は迷惑して居ることだろう。 神を自分の小使いとまちがえてはならない。一番凡夫界の事柄に精通はして居るれけど、やっぱり稲荷は稲荷であり、聖天は聖天だけのことしか知らぬと考えた方がよい。通力を得て居るから、稲荷だ聖天だと云う訳には行かない。通力得た悪戯者が沢山居る。人間に取り憑いたり、稲荷や聖天の顔をして、降臨等して宗教?を開いて居る狐や狸が沢山居る。神界の真理等知る筈がない。行がいやさに人間の体を占領して、糧を得て居る者も居る。商売もする。乗り憑るとすぐ神だと考える無智な人が多いので、彼等はこれを利用する。見極めずに稲荷や聖天だと信じたら、とんでもない目に遇わされる。通力を得たものが、神の使いの行を果しながら、次第に神通力を授けられ、全身白色に変り透明化して、空を駆ける様になる。 白狐だから稲荷様だと云うことは出来ない。白い種類の狐狸が居る。又、天狗と云う動物の様に、人間界と別世界のものとなって、同じ地上に棲みながら、姿を認めることが出来ない。くだ狐、栗狸、豆狸、こっくりさんと云う様なものも棲んで居る。これ等は稲荷や聖天ではなく、悪戯者である。而し、これ等の中にも神に認められ、神の使いをして居るものも居る。本当の稲荷や聖天の守護があると、職業が円滑に、技術も出て商売は繁昌する。いづれの家庭でも、二十柱や三十柱の稲荷や聖天は、種々な役目に於て見廻って居る。この稲荷や聖天を家内の守護として認め、汝の心を善良になおした方が勝である。稲荷や聖天位のような明神位を得ない動物霊等が往々己れ達の生活の糧を得るために人に乗憑って、宗教?等を開いて、凡そ人間とは、かけ離れた理の分らぬことを云って、無智な人間を有難がらせて居る。彼等の世界のことをすぐ人界にあてはめても、何の役にもたつまい。飛んだり、はねたりして、有難がらされる人間が多いのだから、眼に見えぬのを幸と彼等も嘲弄する。彼等が集ってやって居る宗教?に行って居ると、家庭にまで棲み込んで来るので、不眠症等に取りつかれる。 試しに「するめと線香」を家の中で煙してやると、彼等は逃げ出すので、不眠症がけろりと治る。この実例が多い。○○教、○○宗、○○神社、○○寺等にお詣りしたらこの様になりましたと、全く人間の所作はして居らない。私の前で正体を顕わしては、何処其処からついて来た、悪かった帰ります帰りますと、けろりと治る。 鎮守の神を捨てた神社や寺等、彼等の好適の棲家となって居る。鎮守の神を崇め祭って、そこから彼等を追い祓わなければなるまい。黴毒以外の狂人は殆んどこの類が多い。彼等の所為で、とんでもない人間が出来て居る。白狐や赤鳥居、小豆御飯や御饅頭(おまんじゅう)、霰(あられ)、餡転餅(あんころもち)や御荻餅(おはぎもち)の夢等は稲荷の守護ある夢知らせ、てんぷらやぼた餅、肉の揚げ物、塩煎餅(しおせんべい)、白狸等の夢は聖天守護の夢である。塩ゑんどうは斑狐、そら豆は利天や通力得た鼬、総て以上の夢の中、異状の点や気持悪かった点あれば障りである。 彼等の世界は呪詛や呪いばかりやって居るので、これに属する行者等は呪いや呪詛ばかりやる。身に危険を感じた夢は、それだから、私の教えた法でのがれたらよい。足元の方に立った神の夢は敵対を示す。神の呪詛を取れ。枕辺に立った神の夢は守護であるか、救いを求める夢である。又、夢でなく、現実に幻影を見せられることがある。守護を知らすが、身に悪感を感じたものは、障りである。これ等の知らせを受けた時は、その礼を述べ、一層の守護をお願いした方がよい。障りの方は法を持って取り除くべきである。その他、これ等の神に因んだ夢を見せられるので判断することが肝要である。 稲荷や狐の法力を受けた時は、瓜、斑狐は塩ゑんどう、その他かまぼこ、小豆御飯、桃、めろん、小豆物、その缶詰でもよい、喰べると急に楽になる。聖天や狸の法力を受けた時は、肉の揚げ物、てんぷら、焼き肉、ぼた餅、塩せんべい等でとける。これ等の障りに依る大病の場合には神に討伐を願い、又はお詫びし上記のものを病人に与えると、けろりと病がとける。利天や鼬の法力を受けると、腹張りや瓦斯ばかり出て、病気する。貧血症等出来る。お詫びしたり、敵対して居るものは討伐願って、そら豆、人参肉類等与えると楽になる。孰れの場合でも、供養法によって難からのがれる必要がある。 狐が憑いて居ると、鳥肉、小豆もの、瓜等、斑狐は塩ゑんどう、狸憑きは肉類、肉の揚げもの、てんぷら類等を好む様になり、からいばりする。口いやしくなり、狸踊りなど、ものまねする、大概二重人格であって平然として居る。総て、病人の慾しがるものが、相手の好きなものであるので、与えると満足して、離れるので快癒する。 狂人の中には、これ等の憑きものが原因する場合が多く、次ぎ次ぎと供養法によって、取り除くと、嘘の様に治り安い。動物霊によって、狂人がその習性をあらわし動作したり、その好きなものを要求する。どしどしそれを与え、その挙動や食物に依って、何であるかを判断する。又、家族の者達の夢によっても判断されたい。障りものを次ぎ次ぎとお詫びしながら供養法によって取り除くと、薄紙をはぐ様に治る。種々な罪から種々なものが使わされて頼り憑いて居るから、そのつもりで取り除かねばならない。狐や狸が憑いて居ると、何んでもよく知って居る。汝達が考えたこと、思ったこと、総て彼等は通力で取って居る。考えないこと、思はぬことを尋ねると彼等は知らない。稲荷や聖天が神憑ったと考えてはならない。往々彼等が霊の糧を得るために人に乗り憑って、宗教?を開いて、人間を誑(たぶら)かして居る。修行者も彼等に誑(たぶら)かされて居る者が多い。見破られると、尻尾を出して逃げる。巫女に依る宗教等は、心眼の開けた者が側に居らぬと、その神憑りは危険である。上位の神の命によって来る稲荷や聖天なら、まづ、まちがいはあるまい。南無忠孝妙法典と称えて居ると、悪の口をふさぐのですぐ彼等の尻尾が出て、誑(たぶら)かされる心配がない。何事も行き詰ることが無くなるので、信念持てる様になるだろう。 曽て祖先が守護されたことのある稲荷や聖天等も夢枕で教えてくれる。神の恩を忘れた罪などは真心からお詫びせなければならない。現在は特別の守護なくても、忠孝妙法典を称え、神達にお縋りして居ると、夫々の稲荷や聖天等が遣わされ、特別の守護が与えられる。その守護を孫子の代まで伝えねばならない。現在世に名の出て居るものは一部に過ぎない。神域以外の処で実体を見た場合は、使いの行の失敗か、見捨てて、守護を離れる時である。神命による稲荷や聖天の活役は、見逃がしてはならない。但し、偽ものが多いので注意する必要がある。 |