二十三、仏 霊

 仏とは、一度人間に生れて、行終り、霊界に帰って人間位以上の霊位即ち、神位を得るまでにその霊位が昇進されなかった者の総称である。人間以外の生物が死んでも仏とは言わない。成仏と云う言葉はあるが、その意味が違う。猿猫犬牛馬は死んでも猿猫犬牛馬である。先祖の霊が自分より霊位が上で智慧があり、子孫の者は霊位が下で無智であると言う様なことは無い。中には行の次第によって、神位を得た者も居るけれど、一般には、自分と平等に人間に産れ出られるべき仏霊位にある。人間と同等の仏霊位にある仏、或いはそれ以下の霊位にある霊は供養されるべきである。

 神位を得た霊は仏とは呼ばない。神位を得たり、浮世に罪も未練もなく成仏出来た仏は、供養されなく共自由に香や水を採ることが出来る。人は誰でも、臨終の前には、霊界が見える様になり、自分と云うものを薄々知る様になる。其の時、後悔し周章てたとて最早遅い。人は臨終の時、周章てて浮世に未練残したり、現世で犯した罪の為に、迎えの神に捨てられて、行先き暗黒な霊界となって迷い、周章て苦しむ。天罰として、糧である香も水も与えられない。又、罪の裁きのために、ほんの霊が生きるだけしか無い香や水気の世界に連れ去られる。塞の河原と呼び、この宇宙の中にあって、砂利や玉石の大群集が(地球の様に一つに固まらず)ゆるやかに廻転して居る、何一つの生物も存しない、霊の牢獄である。

 この最後の臨終のことを今から念頭に置き、神に縋って法を知り、己を改め罪を詫び、縋れる仏や生物霊等を供養法によって救い、神に対する功績を積み、天職に励んで浮世に未練無く自己が成仏出来る様にして置かねばなるまい。仏は次ぎの二つに区別される。

一、成仏した仏
二、迷った仏

 前者は死ぬる時、浮世に何の未練も残さず、罪も消されて、迎えの神に従いて、それぞれに引き取られ霊の行くべき処に案内され、自由な身となったもので最早、浮世に在った事など少しも考えることなく、楽しい歌舞音楽の音が四方に聞えて、美しい霊界は笑いに満ち、欲する水も香いも自由に得られて、神達の行の様も宇宙に満ち、好む処で修行も出来、自由に遊び戯むれて居る。

 後者は迎えの神に見捨てられ、香も水も得られず、周章て苦しんで、身内や知人の肉体に縋り憑き、救いを求めて居る仏霊や塞の河原に居る仏のことである。此の様に臨終で迷わされるのは、頑固、強情、我儘、利己主義等で神に嫌われたり、神罰を受けたり、祖先の者や自分達の犯した罪、又は寄生霊や迷った仏等に縋り憑かれたりして、迎えの神に従いて行くことが出来ず、未練残して捨てられ、又、悪の神達の教えに信随して、上の神達の故障を受け、成仏することが出来ない。

 此の様な場合、迷った罰として、霊の糧である香いと水は得ることが出来なくなり、遺族の者や、身寄りの者達に袖振り合うも多少の縁で縋り附き、其の肉体から糧を得るより他に途は無くなる。肉体には光、即ち、色が必要であり、霊には香いが必要である。色香に迷うは禁物である。迷える仏に縋られた人達は、肉体から精気を採られるために、段々に衰弱し、年期を以って病気し、家運は衰頽する。仏の迷った罪は遺族の者が受けねばならない。夢を見せて、盛んに救いを求める。夢に見ないでも、足腰がだるみを感じたり風邪気味になったり、家族の者が盛んにお茶や、水許り呑んだり、果物や仏が生前に好きであったものを盛んに食べる。生前の動作もする。此の様な徴候は子供達に多分に顕われる。

 仏が生前病んだ病気に取憑かれるから気を附けて供養法によって成仏させてやると治る。死んだ日から年期を切るから注意すればよく分る。生の苦しみよりも迷った苦しみは大きい。昔から「みこよせ」とか、流行して居るが、呼び出されて乗憑って来る仏は、皆迷った仏であるので、成仏供養をしてやらぬと難が来る。成仏した仏を呼び出してはならない。その仏の位が下るので、彼等は迷惑する。成仏した仏は浮世に未練が無いので、夢は見せない。但し、神位を得た場合は別であるが、迷える仏と夢に差がある。成仏した仏が迷った仏を連れて救ってやってくれと頼みに来ることがある。

 此の場合は、その仏の夢の中に見知らぬ人が出て居る。神位を得た者の夢はすがすがしい。夢には総て判じ物とした説明が附いて居る。何んで迷ったかを判じてやって戴き度い。仏が縋ると、足だる、風邪、耳漏、悪寒、発熱、はては仏が死ぬ時なした病気に取り憑かれる。家業も失敗し、死にたえることもある。迷える仏を救うには、教典を読呪し、己れの修行の功徳を、仏にやって戴き、成仏供養をする。「迷って居ることが分ったから、成仏させて貰ってやるから傷めるな」と言っただけでも、病気はよくなる。供養の供物を求めただけでも、しきび(しきみ)の小枝を求めただけでも解熱する。救われた仏の喜びが徳に代り、家運が急に開ける。霊は必ず恩を返す。

 大衆無縁仏等縋る様な運命にならねばならぬ。仏の命日に導かれて来るのも面白い。救って貰いたさに連れて来る。救ってやるには神に成仏出来る様願ってやる。そして成仏供養に来る時は「○○さんこれから成仏させて貰ってあげるから、私についておいで」と言う。彼等は、苦しいので、ぼんやりして居て成仏供養から落ちることがある。就れの場合でも、他界した時には、迷う程ではないが、幾分の未練は残るので、一応は成仏供養の必要がある。仏を救うと言うことは、仏の為ばかりではなく身の為であり、人類の為でもある。

 霊は香と水を得て、燃えて居るので、成仏した仏が来たときは、身体がぼっと暖味を感じ、迷った仏の場合は、ぞっと寒気がする。香と水が得られない為に火力の精気が弱って居るからである。迷った仏に沢山縋り憑かれると、いくら衣類を身につけても、ぞくぞく寒気がする。仏が乗憑った人の身体に手を触れて見ると、氷の様に冷たくなって居ることがある。足腰の冷込み等も往々仏が憑いて居る。迷うと云うことは、自分だけが罰せられ苦しむのではない。生前愛した者に大難が来る。親が迷うと孝行者程ばかを見る。

 成仏すればその反対である。仏は縋らなくても、迷った仏の罪の裁きは、年期を以て子孫に来る。一度法を持って、成仏させた仏の夢を見た時は、其の夢の中に生きて居る人の居る時は逆夢に判じ、未知の人居る時は、成仏させた仏が血縁ある時は身内仏、血縁なき時は無縁仏の縋りであるが、未知の仏であるが救ってやれとの夢神の知らせである。此の時は速く救ってやらぬと難が来る。汝達の行が進むと、その功徳が祖先にまで及んで、塞の河原の仏まで許されて三十柱、五十柱と縋らされることがある。此の時は急に身体が衰弱するので急いで成仏供養をしてやって戴き度い。運勢が急にのびる。放置するとあっけなく冷たくなる。

 

天元教 第一編

一、唱題 南無忠孝妙法典

二、教典 忠孝妙法典

三、序 文

四、霊や神達は居るか

五、大自然は魂魄、言葉、電素に依って活動する

六、霊と香い

七、虫のよい人間たちの多いこと

八、面白く操られて居る人間界

九、油断と満心は汝の行の禁物

十、竜神及び稲荷の行

十一、竜神と人との関係

(一)人間に落ちた安姫の昇神

十二、稲荷と聖天

十三、水神と井戸神

十四、家相の難除け

十五、地鎮祭

十六、丑九十度清浄圏と未申清浄圏

十七、八柱の荒神

十八、八荒神と水神守護の分布

十九、毘沙門

二十、思ひ除け人形法

二十一、思ひと恋慕

二十二、神の思ひ

二十三、仏 霊

二十四、念霊(生霊)と死霊

二十五、人体に憑く動物霊と供養

二十六、樹木や岩に棲む霊と供養

二十七、金神(こんじん)供養

二十八、執念(しゅうねん)供養

二十九、行体の繁殖とその霊及び寄生霊

南無忠孝妙法典
天元教機関紙
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