四、霊や神達は居るか

 今、自分自身に就いて考えて下さい。我々の体は、物質的肉体ですから、分子、元子に分解し、電子にまで電解し得るでしょう。其の電解された電子を一粒も散らさず逆に元通りの肉体を造ったとしたら、それはものを言うか、ものを言うとしたら、なぜ死んだ者は、ものを言わないのか。地球は段々冷へて居ると言われて居ります。逆に熱を与えられたら、遂には高熱な瓦斯体になるでしょう。

 数千億年前は、高熱なものであったと思われるこの地球の上に、火で焼けたら灰になる我々が棲んで居るのは、どう言うわけでしょう。唯物だけでは、意志もなく、自然に動く力は無い筈です。

 地球は、滑らかに東に東に自転して居るとすれば、風は常に一定の方向に、一定の速さの東風が、又、山麓では、一様な渦巻風が吹いて居る筈では有りませんか。

 見るからに、あゝあの山が崩れた、あゝあの山が出来たと言う様に、一瞬、地表に急激な変化は無い様に思われます。

 太陽は、あれ程の大きな光体です。一定の光度で絶えず照らして居るのだろうと思います。海の上でも、地上でも一様に、万遍無く照らして居るものと思われます。それだのに、時々刻々と地表に気温の急変があるのはどう云うわけでしょう。ある時は、急に突風、竜巻が起り、急に低気圧が生じて暴風となり、そこだけ特別に太陽が熱を与えたり、冷したりしなかったなら、その現象は科学的には、起らない筈でしょう。ゆで卵からひなが出なかったり、柿の種を焼いたら、なぜ芽が出ないのでしょう。

 代数学の一元二次方程式で、XYの答をグラフに置くと、あるものは円、楕円、直線、波動、あるものはパラボラとなるのは何が定めたのでしょう。

 病気等すき好んでして居る者があるでしょうか。自分であやまちにして居るのなら、自分で癒したらよいではありませんか。

 腹はへっても、喉を通らぬと言う人が居ります。なぜですか、自分がやって居るのなら自分で通したらよいではありませんか。

 誰も戦を好むものは、世界中に無いでしょう。それだのに、好まぬ戦争が起るのはどう言う解ですか。

 自分が思ったことも、当る当らぬの二途しか無いのです。当る当らぬが交互に来てしかるべきだと思います。然るに、或る人は、全部思いのままになり、或る人は、全部はずれて不運続き、これは何んとしたことでしょう。

 同じ店が並んで居るのに一方は、はやり、一方は、はやらぬことがあるのは、何の訳でしょうか。そんな理屈はないと思われますが、汝は、自分の言葉で尨大な品物を動かして居ることを知って居りますか。他人の霊や肉体すらも動かして居るではありませんか。

 汝の言葉なしに望む品物がとどけられますか、医者のもった薬さえ、その医者の言葉がなかったら、あなたはその薬を呑まないでしょう。買い物に行って、何も言わないで、品物が買えますか、すべての物は、念や言葉によって動かされて居ることがお解りでしょう。処が物質は、何の念も言葉も発することが出来ません。そうすると、物質の外に念や意志を発する生命の居ることにお気附きになるでしょう。この生命を私は霊と呼びます。

 我々は、日常物質的存在に対してのみ、有り無しと言い、霊の居る物に対しては、居る居らぬと言って居ります。

 生きて居る人に対しては居りますかと尋ね、死人に対しては、死人が有りますかと尋ねます。魚が水中を游いで居る間は、魚が居ると言い、店には魚が有ると言います。

 即ち、霊が肉体から離れたものに対しては、有ると申します。衣類や机、食糧等は、居るとは言いません。それ等には、霊が居らぬからです。霊の居らぬ時は、如何に脳神経系は持って居ても、何んの感覚も持ちません。

 死体は切られても痛いとは言いません。又、自分で、動くことも致しません。こ奴と言ふ言葉も、霊が居るものに対してしか使われて居りません。

 霊は同じだ、一つの体霊から別れたのだと信じて居る人がありますが、それなら誰でも同時刻に同じことを考え、又、同一の所作をしなければならぬ筈です。汝の今の所作と私のそれが違って居り、名々思い思いのことを考えて居るのは何の訳でしょう。汝の霊と私の霊は全々別箇のものであることが、お解りでしょう。この様に沢山の霊が、この大自然の中に棲んで居るのです。そして、その行の出来た程度によって位が定められて居るのです。

 人間界には、人間位の霊位にあるものが生れ、牛馬には、牛馬位の霊位のものが行のために生れ出されるのであります。

 人間の肉体から行の期間を終って去った霊のことを私は仏と呼んで居ります。

 仏と言うのは、かつて人間に生れたことのある霊に対してのみ呼ばれる名称であり、牛馬は死んでも牛馬であります。

 仏は、仏教ではありません。仏教は印度から伝った釈迦の教えですから、お間違えなき様お願い致します。私は、この人間位の霊、即ち、仏より上位の霊位に在る霊達に対して、神と言って居るのです。従って、神には、何の由緒も無い偉大な神力を持つものが沢山居るのであります。

 神は同じだ一柱しか居らぬと言う人が居られますが学者は宇宙の広さは、二十億光年だと言って居ります。それは正しいでしょう。若しそうであるなら、私はその学者にお尋ねしたいのであります。そんならその外側はなんですかと、大自然は無限大の筈です。

 そこには、他の宇宙が造られてあることを気附かねばならぬでしょう。そして沢山の他の宇宙が無ければならぬでしょう。

 こんな大きな大自然、そして多種多様な現象を、たった一柱の神でなし得るでしょうか。

 人の顔、指紋、木の葉まで、何一つ同じものは無いのです。若しあなたが、神は一つだと言うなら、汝達の信じて居る神は生きて居るものでは無く、死んだ空想の神でしょう。

 私の教へる神達は、生きて居て、無から有を造り出したり、己の念に依って、電素や精や元素、分子、物質等を自在に造り出したり、あらゆる現象等を計画的に自在にして居られる霊や霊魂、魂魄のことなのです。

 私の教えた教典や法を、あなた達が用いることによって、誰にでも、神達や霊の存在を容易に知ることが出来ます。

 研究することによって、どんな病気でも、家庭の苦しみでも解消し、不運も急に無くなるのであります。総ては、天罰、神罰、迷える仏、悪に返った神等によってなされて居る場合が多いのであります。どんなにえら振っても、アミーバ動植物に命を取られて居るあなた達ではありませんか。理屈抜きで研究致しましょう。

 なに、神なんか居るか、空想の神を造って、神が居ると教えるのは、邪教だと、私を過去に弾圧し尽くしたように、神社は、神を祭るのではない。人間の功を祭るのだと言いはるなら、それでよい。私は何時までも、神が勝つか、人間が勝つか、静かに見守り度い。今までの世の中の動きを見て居ると面白く動かされ、どうやら神の方が勝ちそうだ。次ぎ次ぎと苦難に苦難を与えられ、人間の方が今に悲鳴をあげるだろう。化学をお習いの方々は、静かに元素の周期律表を拡げて見て、一体誰が元素をこんなに規則正しく並べたのだろうと考えて戴き度い。元素は、意志を持たぬ筈ですから。そんなら神を見せよ、眼の前に神を出せ、と言わるる御仁が(過去の日本には沢山居たのであるが、法廷に竜神を出せなどとな)あるとしたなら、私はあなたは「かみ」を見たことがないのですか。今の御仁としては、珍らしいですな、頭の髪、日本髪、洋髪、日本紙、西洋紙、新聞紙、唐紙、ボール紙、鼻紙、拭くの紙、色紙、ハトロン紙等沢山の種類の紙のあることを、御存知ないのですか、紙にも質の善し悪し、左右、上下、裏表がありますよ。裏と表は陰と陽、神にも善悪、男女があるのですよと言い度い。

 屁理屈家はさて置き、皆さんは、真の学問をするかさもなくば体験して、真の神を知る以外に道はあるまい。どんな屁理屈家でも、心の底に神を恐れて居ることは疑いもない。そんなら、神の守護は、今日限りいらぬ、全部自分でやるからと誓えと言ったら、なんとも答へる御仁はなかった。
 そんなことは、「言えない」と言ったり、神は無い(居らぬの意味か)と言ったかと思うと、罰があたると言って居る。神は有る無いと言うのではない。私は神は居ると教えて居るのだ。神が居ないのに、罰があたる筈はあるまい。

 

天元教 第一編

一、唱題 南無忠孝妙法典

二、教典 忠孝妙法典

三、序 文

四、霊や神達は居るか

五、大自然は魂魄、言葉、電素に依って活動する

六、霊と香い

七、虫のよい人間たちの多いこと

八、面白く操られて居る人間界

九、油断と満心は汝の行の禁物

十、竜神及び稲荷の行

十一、竜神と人との関係

(一)人間に落ちた安姫の昇神

十二、稲荷と聖天

十三、水神と井戸神

十四、家相の難除け

十五、地鎮祭

十六、丑九十度清浄圏と未申清浄圏

十七、八柱の荒神

十八、八荒神と水神守護の分布

十九、毘沙門

二十、思ひ除け人形法

二十一、思ひと恋慕

二十二、神の思ひ

二十三、仏 霊

二十四、念霊(生霊)と死霊

二十五、人体に憑く動物霊と供養

二十六、樹木や岩に棲む霊と供養

二十七、金神(こんじん)供養

二十八、執念(しゅうねん)供養

二十九、行体の繁殖とその霊及び寄生霊

南無忠孝妙法典
天元教機関紙
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