七、虫のよい人間達の多いこと

 虫のよいことばかり考えずに、少し冷静に考へて見る必要はないか。神位と生物霊位について、汝は何を考えるか。汝達は人間に乗憑って来たりすると、すぐ神だと考える、誠に危険極まりない。すべての生物は功を経ると通力を得る。汝も小供の時より大分功を経られたので、大分通力を得られて、世の中の色々なことが、おわかりになるでしょう。

 けれど、今の汝は神では無く人間なんでしょう。如何に通力は得ても神とは言えないのであります。高位の神達にその功績を認められた時始めて、神から神通力を授けられ、明神位又はそれ以上の神位を得ることになるのです。それも神通ずるの力であって、高位の神の力が通ずることになるのです。造物主天地之神以上の神の神力がそのものを通じて表れることになるのです。途を間違えたりすると、即座に神通力は失います。行中のものは、油断したり、物に見蕩れたりすると行に破れ、神通力を失うことになって居ります。汝も油断したり見蕩れたりすると、怪我をしたり掏摸にすられたりします。魔神と云う神が汝の行を見守って居ります。

 魔神は悪る神ではなく天津神・国津神達の行の様すら見守り、神達すら恐れて居ります。神達や汝の行を試すために、彼の役目ですからお気を附け願います。霊位は行によって、だんだんに向上して、徳を与えられることになって居ります。アミーバ動植物位から虫類位、魚類位、爬虫類位、鳥類位、獣類位、人間位と植物とても同じこと、汝は今、生物霊位中最高位の霊位を得て、人間に生れて居る。どんなに通力は得たからとて、汝は神とは呼ばれない。私の教える神は、人間位以上の霊位に居られる霊の称号であって、人間の小間使いではない。おまちがえにならぬよう。多くの人達は神を小間使いにしたがるもの、この病気を治して下さったら一生信心しますとか、どうかあの人と夫婦にさせて下さいとか、金もうけが出来ますようにとか、商売繁昌させて下さいとか、甚だしいのは神の姿を、犬にして泥棒の番をしてくれとか、全く神に対して感謝の心は無く、小間使いや小使いさんのように考えて居る人間の心が、位が上ればかくも満心するものかとほとほと感心する。

 汝はやっと生物霊位での最高位の人間位を得たばかりではないか、汝の上には神が居るぞと言ってやり度い。言葉は同じように「かみ」と言っても「かみ」にも種類があり、有る無しと言われる紙や髪、居る居らぬと言われる神、方向を示す上「かみ」の三種類がある。紙や髪なら知らぬ人はあるまい。文化に浴せぬ人達は別である。今更、この方については説く必要はあるまい。居る居らぬの世界に居る神のことについて、主力を置き、法を説くことにする。汝の肉体をひっつけて考えるとわかるまい。

 なるほど紙は人が造って人間が小使いのように使って居る。紙幣でさえ小供達が「お小使いをくれ」と言って居る。これは汝達の小使いかも知れぬけれど、髪は毛根菌と云ふ小動物が造って居るので、汝の自由にはなるまい。如何ですか、汝は汝の肉体は見たことがあっても、汝自身を見たことはあるまい。汝のからだ、汝の眼、すべては「の」のついた汝の所有格になって居ります。これらを所有する汝は一体何ですか、汝のからだの部分全部が「アミーバ」動物に造られたとしたら、汝は一体、汝のからだの、どの部分を造って、汝のからだを使用し、満心して高慢に、おれがおれがと威張り散らして、神達をないがしろにし馬鹿にするのか、いづれ苦しみが来るようになるのも自業自得であろう。

 いや、神を馬鹿にしては居らぬ、あがめ祭って居ると口では立派なことを言うだろうけれど、その行為といったら全くゼロだ。これで神の加護が得られるだろうか、罰があたるのが関の山だろう。歴史を繰返し繰返し何度もひもといて見たらわかるだろう。神を馬鹿にして遠ざけた時代と真の偉大な神をあがめた時代と天皇について調べても格段の差があるだろう。牛馬犬猿豚、狐狸鼠猫、河童等は畜生と言って居る。蛇は長虫、汝は人に「おい畜生、この仕事をしてくれ」とか、「おい虫けらこれを呑め」等言われたら汝は怒らずにそれに従うか。かりにも、神位を得た神の姿を牛馬豚犬猿狐蛇等の姿になぞらえて、この姿を祭ったら「おい畜生たのむぜ」「虫けらたのむぜ」お前は畜生だろう。おれが養ってやらねば食えぬのだろう。おれが供え物をして養ってやって居るのではないか。おれの言うことを聞けと言うのと同じではないか。




神(上)

明神位より全能の神まで







人 間 位







仏 霊 位

動植物位(畜生位)
牛、馬、豚、犬、猿、猫 
鼠、狐、狸、河童、蛇、鳥

魚  類  位

アミーバ動植物

 神としての行に破れた途をまちがえた神でないかぎり、正しい神達の中には、汝にお供えしてもらって、養って戴かねばならぬ様な情ない神達は居ない。過去の祝詞の中によく見たのであるが、種々の物をお供えしてお願いするから願いを聞いてくれ等とお供物を持って神を釣る。海老なら鯛が釣れるかも知れない。神達が馬鹿にするなと笑って居たぜ。来て居たのは乞食神の悪る神や香の自由に採れぬ迷った動物霊ばかり、正しい神には乞食は居らぬ。

 ある人が私の前に来て、お稲荷様に願いをかなえて下さったら、油揚げを持ってお詣りに行きます。又、ある観音さまに願いをかなえてくださったら、お詣りに行きますと、毎日願掛けて居りますけれど、不運続きで一向に利益はありません。一体、お稲荷様や観音様は居られるのでしょうかと尋ねました。私はお稲荷さんはそんなに眼がくらむ程、お揚げがお好きですか。観音様も色男か、恋人なら願いをかなえて、おいでになるのを一日千秋の思いで、お待ちになるかも知れませんね、汝の何にあたるのですかと答へました。

 ある神社の奥の院を見たら、人間の生殖器が御神体として祭ってあった。これでその地方が栄えるであろうか。お聖天様だと言って、生殖器の形をつるし上げて油ゆでにして居た。人徳のある人の姿は汝にも想像つくでしょう。それならまして、神徳のある神の姿は如何にあるべきか、お考えになる必要はありませんか。二つも三つも顔がついたり、十本も二十本も手足のある化け者の姿や怒りにもえた仁王や夜叉、不動明王の姿等、汝には神徳ある神の姿に見えますか。悪る神の姿ではないのか。仏教の伝った道筋には、男女のだきあった御本尊が沢山ありますよ。これをあがめて祭ったとしたら、汝の信ずる神はよっぽど淫乱なのでしょう。人食い女を守護神だとあがめて居るのもあります。これで御利益があったらどうかして居りませぬか。人食い女が守護神になれるのなら、汝も人を食った人間にならなければ、神位は得られないでしょう。人を馬鹿にしても怒るのに、まして神を見下げ馬鹿にしたら、どんなことが起るでしょう。このような教の弘まった国に立派に栄えて居る国がありますか。この国に於ても、この教の全盛になった時には、何時の時代にも、乱脈と苦難、果ては滅亡となっては居りませんか。

 いや、これらは神の使いだと言われるでしょう。それなら汝は何んですか、汝は神の使いではないのですか、人間は生物界では最上位の神の使いである筈だが。汝は何をしに人間として生れたのですか、唯偶然に生れたんだとおっしゃるでしょう。そんなら、どんなに苦しんでも、すべてが偶然だとおあきらめなさい。それがいやなら、汝は今からすべてを改めて、汝の使命を思い出せ。神達は善良な楽園を造ることを楽しみとして居るのだと私は言い度い。

 人間が上か、神が上か、若し、神が上であるとしたならば、神が人間に祭ってくれと、人を使って頼むだろうか、現実には神符を持って頼みに来ては居らぬか、偉力ある神であるなら、神はすべての生物を支配して居るのであるから、人間の方から出向いて、お祭させて戴くようお願いするようになる筈であると私は思います。汝は汝より上の位の人に、位を送ることが出来ますか。神が人間に位をもらってよろこぶだろうか、人間より下の狐や狸なら、さぞよろこぶでしょう。如何に通力は得ても、神通力を与えられないかぎり、狐は狐、狐の智慧しかありません、狐は稲荷ではありませんから、おまちがへならぬよう。正一位稲荷大明神、正一位と言えば、過去人間社会の最高の位勲、人間の位であった筈、明神位は、人間位より上の位、人間と同じ位を付けてもらって、明神は喜ぶだろうか。明神位にも上から下まで、相等の巾があります。神の位を得ぬ霊ばかり祭られて居るから、こんな結果になって居るのではないか。

 過去、明治大帝が教え祭らせた鎮守の神を捨て、由緒なき神は祭らせるなと、多くの神社に人霊即ち仏を祭り仏教神道となって、神社を合併し、真の守護を受けた鎮守を遠ざけて氏神と代へ、折角、鎮守の神に従う諸々の神達が人を使って送らせた貢物も取り止められ、塞の河原となった現実を思い起されよ。偉大なる神を信じ従った神功皇后の様、如何、眼にも見えない神に由緒があろうか。鎮守様の御神符と言われた頃の神符は、偉力を放ち、これを沢山蓄へて居た家は比較的に栄えて居た。私もその偉大さを現実に体験した。しかし、鎮守を遠ざけてからの神符は、その力を失って、逆の効果があらはれて、神符を沢山持てば持つ程不運が続いて居る。実にも恐ろしい結果が表はれて居る。

 人間を神とし、神は人間であるとし、又、動物の姿異形の姿のものを神の姿として祭った社閣の神符を沢山持って居る者程、難の多い様を静かに見守られよ。又、神の位にあるべき者を仏霊と同じ位とし、仏壇に祭って居られる者の相次ぐ難を見られよ。すべては年切って表われるもの、高位の人と下位の人と同一の場所に居られる時の所作を見られよ。その真理を知ることが出来るであろう。汝達の祖先であるべきその仏霊を苦しめて、汝に幸が来るであろうか。神は神棚に、仏霊は仏壇に祭るべきではないのか。甚しいのは、日夜大きな悲しみを与えてくれと念じながら、さて願のようにかなえてもらったら、何に神も仏もあるものかと怒って居る人がある。怒る位ならなぜ、そんな願を掛けるのか、小供の時から「いろは」を習ったのなら、汝が過去、現在に神や仏に唱へた唱へ言の文句を漢字に書き、その字句に付いての意味を知れ。

 その唱え言の通りに汝はしてもらったのではないのか、それなのに、神も仏もあるものかと怒るのは、汝が虫がよすぎるのではないか。汝も人間であるなら礼節を知り、神に御恩になったのであるから、一寸お礼の言葉ぐらい申上げたらよいのではないか。

 お前は犬よりおとりだ、犬に土下座せよと、ふれを出した犬公方、犬を追ってすらも、切り捨てられた汝の祖先の苦難時代、あれは何者が進言したのか、折角、明治初年に廃仏毀釈論を起して、神に対する御先祖の方々の覚醒から、天津神、国津神の一部を知って、神社を興し、鎮守の神として祭り「村の鎮守の神様の今日はめでたいお祭り日」と歌って栄えた御代すらも、過去の悪習が棄て切れず、仏は仏教だと考える観念が、又、仏教に食いこまれ、栄のために満心し神の恩を忘れて、はや明治の末期には鎮守を棄てて、人を祭り、これを氏神様とした。私の先祖は仏教だと言われる人は、印度や支那からこの地に来られた人々だったであろう。古くから、この地に住んだ御方なら、神武大帝以来歴代の天皇によって教えられた神達に信随して居られた筈である。

 明治の御代にもこの神を知り栄へた。大正の代には親を忘れ、昭和には郷土も忘れた。この様は鎮守の神を捨てた贈り物であろう。鎮守の神と言えば汝の思想、技術、才能、運勢、職業、汝の生死等汝のすべてについて守るそれぞれの役目を持つ神達の集団の総称であって、どんな氏の人にでも、えこひいきはせぬ。氏神と言ったなら氏のみ司るもの、若し、汝の氏と同じ氏神ならそれは格別であるだろう。過去に藤原氏、中臣氏、源氏、平氏、これ等がその守護神を祭ったのが、その氏の氏神である。この時代の様を見られよ。藤原時代には、藤原の姓以外の者は栄える術がなかったであろう。平氏時代も同じこと、その一門しか栄えることは許されなかったろう。その時代の氏の争いを思い起されよ。

 私は私の氏の氏神が地上に祭られた社がないので、お詣りには行かれぬ、徳を取られるのはいやだから、鎮守を祭る社ならこれを守り立て崇めるだろう。鎮守の神の中には、総ての氏名を守る氏の神達が居る。近頃氏神の社をお守りする神主さんに、中風症にかかって居る様なのが多い。一生懸命土地の氏神を守り立てて、一家に不幸ばかり来て居るのはなぜか。神を動物の姿、悪鬼の形相等になぞらえて祭ってある社閣を守り立て、どら息子が出たり、果ては、年切って家まで滅び去って居る。静かに見守ってもらい度い。私の教の中には、処々方々を守る鎮守の神の社や墓地を守る寺もいる。私の教の信者によって、偉大な鎮守の神達を祭ろう。汝の肉体は霊達の糧を造る機械であるので、神達は、これを保護育成するために、八柱の荒神や水神の夫婦を使わして居る。又、竜王、竜神、稲荷、聖天等神通力を得たものを限り無く使って守護に来させ、汝の行を見守って居る。汝が知ると知らずとを問はない。それだのに、汝が汝の一家を見守るそれらの神の恩を認めず、他から荒神や稲荷を迎えて来て、それにばかりちやほやしたら、もとから汝の一家を保護した荒神や稲荷はどんな気がするだろう。

 若し、汝が守り立てた人に汝の功績が認められず、その人が他の人を連れて来て汝を袖にしたら、汝はどんな気がするか、汝は努力を続けるか、荒神や稲荷とても同じではないのか。

 神の恩を忘れたり、気附かずに居ると、変な息子が出来て、汝の苦労して造った財も使い果してくれますよ。先づ汝は汝の一家を護って居る荒神や稲荷等を認めて、その後から他の荒神や稲荷等の守護を願うのが道ではないのか。身勝手な虫のよいことばかり願わずに、心から南無忠孝妙法典と大自然中に居られる神々に念願して、汝の性質を直し、真の神から徳を与えられて共に栄へ、汝の家の楽園から全世界の楽園を造る気にはなれぬか、来世の汝は何処に生れるやら。

 

天元教 第一編

一、唱題 南無忠孝妙法典

二、教典 忠孝妙法典

三、序 文

四、霊や神達は居るか

五、大自然は魂魄、言葉、電素に依って活動する

六、霊と香い

七、虫のよい人間たちの多いこと

八、面白く操られて居る人間界

九、油断と満心は汝の行の禁物

十、竜神及び稲荷の行

十一、竜神と人との関係

(一)人間に落ちた安姫の昇神

十二、稲荷と聖天

十三、水神と井戸神

十四、家相の難除け

十五、地鎮祭

十六、丑九十度清浄圏と未申清浄圏

十七、八柱の荒神

十八、八荒神と水神守護の分布

十九、毘沙門

二十、思ひ除け人形法

二十一、思ひと恋慕

二十二、神の思ひ

二十三、仏 霊

二十四、念霊(生霊)と死霊

二十五、人体に憑く動物霊と供養

二十六、樹木や岩に棲む霊と供養

二十七、金神(こんじん)供養

二十八、執念(しゅうねん)供養

二十九、行体の繁殖とその霊及び寄生霊

南無忠孝妙法典
天元教機関紙
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