九、油断と満心は汝の行の禁物

 そんなばかげたことがあってたまるかと、汝は言うだろう。けれど汝自身を知らない汝には、分らぬのが道理だろう。どんなに学問したとて、物質の現象だけを論ずる科学では汝自身が割り切れまい。汝は「私のからだ、私の服、私の帽子、私の靴」等と言うだろう。からだ、服、帽子、靴は一体汝が私、私と言う、その私と同一のものであろうか、私、私と言われるその私は居る、居らぬと言われ、からだ、服、帽子、靴等は有る、無いと言われて居る。

 「居る、居らぬ」と「有る、無い」は同一のものであろうか。汝が汝自身の居ることに気附いたなら、そんな満心は出来ぬだろう。汝と汝のからだとは、違う。汝は汝のからだは見たことがあるけれど、汝は汝自身を見たことはあるまい。汝のからだは物質から出来た機械であるけれど、汝自身は物質ではない。汝のからだを動かすには霊体と言う機械を用いなければ自由にならない。その霊体は、霊魂体と呼ぶ機械を用いなければ、汝自身だけでは、汝の思うようには操作が出来ない。汝自身は魂魄と呼ぶ一生命であって生きて居る。沢山の魂魄が物質と別に大自然中に住んで居て、皆が互に、私、私、汝、汝と呼んで居る。誰か来た、その誰かは物質ではない。汝はその誰かの使用して居る機械を見て、誰それだと判断する。汝の名前は、汝のからだの特徴から判断される。今の汝は、霊魂体と霊体との二つを同時に所有して、今の汝のからだを操縦し、汝のからだを自由に使って居る。霊魂体と霊体の二つを所有して居る魂魄を私は霊と呼んで居る。私は汝のからだに対して汝と呼んで居るのではない。支配の神に命ぜられ、役目を帯びて汝のからだを操縦して居る魂魄汝自身に対して、私は汝と呼んで居る。汝のからだには汝より他の霊がいくつでも同時に乗入ることが出来るからである。

 この様な場合には、汝自身は苦しいので、澄み切った心に汝はなれないで、たえず心が波打って動揺する。時によると、とんでもない汝が出来て信用することすら出来なくなる。汝は汝のからだを他の霊に取られない様に常に気を附けねばならない。時には汝は汝の体から離れて遊びに行くことも出来る。その時汝の体に向って、汝の名前を呼んでも返事はしない。唯ぽかんと抜けて居る。この様な場合、からだをたたいて名前を呼んでやると、電波が動くので汝はびっくりして、飛んで汝のからだに返って来る。恋は、汝達の肉体がして居るのではない。その肉体内に住んで居る汝自身が恋して居るのである。それ故に、肉体を捨てて心中行為もすると言うことにもなる。若し、肉体が亡ぶと同時に汝自身も居らなくなるのであるなら、身を捨てても目的を達しようと言う心は起らぬだろう。

 霊も霊魂も共に香と精を食って、その生命を保って居るのであるから、糧に飢えた霊が汝の油断を狙って汝の腹に込って、住み込み、汝の理性を失なわせ、経済等殆んど無視して飲み食いさせたり、腹立せたり、いらづかせたり、くよくよさせたりする。動物霊等が込って居ると、ばかにえらぶって居るかと思うと、この上も無い臆病であったりする。二重人格にも三重人格にもなったりする。今栄へて居るからと言って油断はならない。汝の頑固や強情、我儘、利己主義、神の加護や恩を知らなかった罰等を受ける時が来ると見る間に没落する。その時が来て始めて己の力だけで栄えて居たのではないことを知ってあせり出す。ころばぬ前の杖が必要であったのではなかろうか。

 南無忠孝妙法典と称え、神にお縋りすると、神は汝の性質を改めることを要求する。それは南無忠孝妙法典と云ふ言葉が「この上もない、中心が保てて協同精神と愛に富み、真理と道理と法則にかなった模範な者にして下さい」との願いの言葉であるからであります。そして、汝は私が示した教典を称えながら、汝達一家が過去に犯した神に対する罪について研究し、詫び改め、それぞれのお教えした方法或いは、供養法に依って、その罪の精算に努力しなければなりません。

 汝達が生活するために犠牲に供した所有生物体中にも、汝と同じ様な霊が住んで香の固りである肉体を造るための努力をつづけ、その完成したものを汝に渡したのであるから、若し、その霊が浮世に未練を残して迷って居る場合には、汝はその霊を供養法に依って、救ってやらねばならぬ義務があるのです。沢山の霊が迷って、水も香も採れぬと苦しいので、汝の体に縋り憑き、汝の体から栄養素を取り去りますので、汝は次第に衰弱し病気したり、不運になります、そしてどんな医療を受けても治らず遂には死ぬ。

 そして自分も成仏出来ず、迷わされ、身内の者や知人に縋り憑く、そして次ぎ次ぎと死んで遂には一家や一門が死滅する結果となり、これを繰り返すと、迷える霊の集団が出来、雨も降らぬ様になって民族全部が滅亡して砂漠にも成り得る様になる。霊が迷うことはまことに恐しい結果を生む。それ故に、汝は、先づ死んだ人のことに付いて夢見たことはないか、誰々の夢を見たか、家族の者が水ばかり慾がりはせぬか、気に掛かる仏はないか、足がだる味を感じないか、果物ばかり慾がりはせぬか、汝と同じ病気で死んだ人は知人に無いか等調べ出して書き出し、仏の供養法に依って、それ等の仏を救ってやらなければなりません。

 夜、糧をあさる動物霊に憑かれると、不眠症になり勝であり、狸霊はいばり散したり、肉類やてんぷら、狐霊に憑かれると、おおむね小心でこせこせする。鳥肉や豆類、かまぼこ、猫霊に憑かれると魚類ばかり好むようになり、指痛み等起す。魚霊、蛇霊、虫霊等は、かゆみ、腫物等、蟻霊は甘い物を好み寝小便等する。取り憑かれた者がその動物の所作や習性をかすかに表わすようになるから気を附けるとすぐわかる。猿霊に憑かれると利己主義で自分だけ食えばよいと云うような性質を持つようになるので、それ等の霊をそれぞれの供養法で救ってやると治る。みみづを清水で洗って、不浄物をかけてすまなかったと言って土中ににがしてやると、陰部のただれや眼病、熱病等がけろりと治ったり、なめくじを供養してやって、中風症や水虫病が治り、せみ霊に憑かれて発狂等して居る。樹霊に憑かれて、立居や手足が不自由、癌等も出来て居る。くも霊に憑かれて風呂ぎらい、疫痢等も引き起す。何んの霊でも迷へば憑く。

 皆さんが恐れて居るのも眼に見えないような菌類だからね、虎でも犬でも糧にうえれば向ってくる。汝の不運や病気は、生物の作用に依るものと霊に依るものと、二途考えたらよい。人間も霊の居る生物だから忘れぬように願います。人間程化けたり、だましたり、他人に取り憑いたりする動物はありません。

 恋しては相手に取り憑き、怨んでは憑き、相手に苦難を与えて居る。他の動物でも怨めば取り憑くことを知る必要がある。これ等の霊を供養法に依って詫び、あるいは救ってやると、急に治るのだから熱心に研究すべきだろう。よい機械程、誰でも使って試度いのが本能であると同様に、人体のように精巧になると、何の霊でもこれを操縦してみたいのが同理であります。満心は油断を産む、得意の時に怪我をする。気を附けねばなるまい。運勢がのすにつれて、仏霊はたよってくる。汝がおちぶれた時には、親族でも集って来まい。栄えると、見ず知らずの者でもよって来る。迷った仏でも救って貰えると思えば同様で、放置すると落運が来る。油断せぬ様に気を附けて、その度に供養法で救ってやると、恩を返すので、汝の運勢はどんどんのびる。おしげなく救ってやった方が汝の不運をなくする基になります。体験以外に信じる道はあるまい。

 人道的に汝が如何に正しかろうと、神の霊的行の法則にふれて居たのでは、不運は来るのです。神は行体の滅ぶような行為をするものを罰しますので、屋敷の中のごみの置場に依っても、熱が出たり、異状月脛等を引き起す。この様な場合、置場を変える以外に道はない。捨て杭が腐って地中にあっても、ひどい神経痛等起して居る。荒神に詫び取り去ると、治るのだから疑う必要はあるまい。飲料水を取る場所で、不浄物を洗ったり流したりしても、大病したり、癌等造る。これは水神による罰である。屋敷内は清潔に保たなければならない。屋敷内をむき出しの下水が流れて居ても病気ばかりする。このようなことは人道としては考えられないだろう。改めると、治るのだから、ばかなことを云うなと笑う人があってもかまわない。

 

天元教 第一編

一、唱題 南無忠孝妙法典

二、教典 忠孝妙法典

三、序 文

四、霊や神達は居るか

五、大自然は魂魄、言葉、電素に依って活動する

六、霊と香い

七、虫のよい人間たちの多いこと

八、面白く操られて居る人間界

九、油断と満心は汝の行の禁物

十、竜神及び稲荷の行

十一、竜神と人との関係

(一)人間に落ちた安姫の昇神

十二、稲荷と聖天

十三、水神と井戸神

十四、家相の難除け

十五、地鎮祭

十六、丑九十度清浄圏と未申清浄圏

十七、八柱の荒神

十八、八荒神と水神守護の分布

十九、毘沙門

二十、思ひ除け人形法

二十一、思ひと恋慕

二十二、神の思ひ

二十三、仏 霊

二十四、念霊(生霊)と死霊

二十五、人体に憑く動物霊と供養

二十六、樹木や岩に棲む霊と供養

二十七、金神(こんじん)供養

二十八、執念(しゅうねん)供養

二十九、行体の繁殖とその霊及び寄生霊

南無忠孝妙法典
天元教機関紙
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